武蔵国分寺跡【国指定史跡】

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ページ番号 1004222  更新日  令和5年9月20日

僧寺金堂跡の画像

 奈良時代の中頃の天平13年(741年)、政治の混乱や社会不安の続く国内を仏の力で国を安定させるために、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。武蔵国分寺の伽藍は元弘3年(1333年)の分倍河原の合戦の際に焼失したと伝えられていますが、江戸時代には武蔵国分寺跡は江戸近郊の名所として知識人の注目を集め、地誌にも紹介されるようになりました。
 武蔵国分寺跡は、規模やその歴史的価値の高さから、大正11年(1922年)に国史跡に指定され、市ではその一部を市立歴史公園として整備し、保存と活用に取り組んでいます。

所在地

国分寺市西元町1丁目から4丁目付近

電話番号

国分寺市ふるさと文化財課 042-300-0073

交通アクセス

JR中央線・西武国分寺線・多摩湖線→国分寺駅徒歩18分、JR中央線・武蔵野線→西国分寺駅徒歩15分

指定名称

国指定史跡 武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡

金堂跡

金堂基壇復元

 金堂は本尊仏を安置する建物です。桁行き7間(約36メートル)×梁行き4間(約17メートル)の礎石建物として建てられました。現在も多くの礎石が残されています。武蔵国分寺の金堂は、諸国国分寺中最大級の規模となります。
所在地 西元町2-1,2

講堂跡

金堂・講堂間の通路

 講堂は経典の講義などが行われる建物です。桁行き5間(約29メートル)×梁行き4間(約17メートル)の礎石建物として創建され、後に金堂と同規模の桁行き7間(約36メートル)×梁行き4間(約17メートル)に増設して再建されたことが明らかになっています。
所在地 西元町2-1,2

その他僧寺伽藍中枢地域

鐘楼跡画像
鐘楼跡
金堂と講堂の間の通路の写真
金堂と講堂の間の通路
中門跡の写真
中門跡

七重塔跡

史跡画像

 七重塔跡は、金堂・講堂跡から東方200メ-トルのところに位置します。塔は、「金字金光明最勝王経(きんじこんこうみょうさいしょうおうきょう)」を安置する国分寺の重要な施設でした。3間(約10メートル)四方の礎石建物で、高さは約60メートルほどあったと推定されます。現在、中央にほぞ穴(心柱を受ける穴)がある心礎を含め7個の礎石が残っています。
 国史である「続日本後紀」に、承和2年(835年)に七重塔が雷火で焼失し、復旧ができなかったのを、前の男衾郡(おぶすまぐん・現在の埼玉県比企郡付近)の大領(たいりょう・長官)である壬生吉志福正(みぶのきしふくしょう)が再興を願い出て許されたと記されています。発掘調査では、再建された塔が創建期と同じ位置に建てられたことを確認しています。
 また、平成15年度の地下レーダー探査により、礎石の残る塔跡(塔跡1)の西方約55メートルの地点で、もう一つの塔跡(塔跡2)が発見されました。塔跡2には大規模な地盤固めの跡(版築・はんちく)があるのみで礎石は残っていません。塔跡2と塔跡1の建て替えとの明確な関係は把握できていません。
所在地 西元町3-26
 

市立歴史公園 史跡武蔵国分寺跡(僧寺北東地域)

僧寺北東地域の画像

 僧寺北東地域は、大型開発に対する緊急保存対応で平成14年度に史跡に追加指定された場所で、国分寺崖線上に位置し、崖下には真姿の池湧水群があります。
 平成18年度と19年度の2カ年で保存整備工事を実施し、平成20年4月に市立歴史公園 史跡武蔵国分寺跡(僧寺北東地域)として開園しました。
 公園内の北側には、僧寺伽藍地の北限を区画する溝が存在しています。溝の位置と規模を平面的に現地に表示してあり、その一角に地下の溝遺構の断面を観察できる施設があります。
所在地 西元町1-1

地図

武蔵国分寺跡【国指定史跡】の地図

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このページに関するお問い合わせ

教育部 ふるさと文化財課 史跡係
電話番号:042-300-0073 ファクス番号:042-300-0091
〒185-0023  国分寺市西元町1-13-10
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。